関山神社は、藤川の鎮守として崇敬をされてきました。
祭神は「天手力雄命(たじからおのみこと)」を主祭神とし、「須佐之男命(すさのおのみこと)」「仁徳天皇」を併せ祀られています。

この関山神社の里宮参詣への鳥居・石段を含む方向が、藤川宿の本陣に向かっていて、さらにその南には「薬師山」があり、なにかの意図をもってこのように配置されたのだと考えられることを以前このブログで書かせていただきました。

先週の日曜日、関山神社・社務所での集まりが有り、参加させていただく機会が有りましたので、以前より聞いていた「関山神社の歴史等をまとめた資料」をいただいてきました。
想像していたのとは違いB5用紙の見開き型のもので、もっとボリュームが有ると勝手に思っていたものですから、少しばかり肩透かしを食ってしまいました。

しかし、この中には今まで知らなかったことが記されており、新たな視点を与えてくれるものになりました。

関山神社 社記この社記には
往古 赤山大明神と奉称 宝永年間再建 三月五日 天保九年改修 関山大明神と奉称 弘化二年本殿再建 ・・・

と有ります。

もともとは関山ではなく赤山という名称の大明神であった。という事です。この事は昔、この山の辺りを赤山(あかやま)と呼んでいたこともあり、この山名と神社の名前が同じだったものが、どうした訳か赤山を関山という文字に変えられたのだと思っていました。

ところが今回入手した『「関山神社」のしおり』には以下の様にありました。

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そもそも「赤山大明神」は、京都市の東にある比叡山・延暦寺の僧・円仁(えんにん)が中国から伝え、室町時代の中頃、天台宗の寺僧が教えを広めるため、藤川の地に伝えられたものと思われ、また戦国時代の武将・内藤家長(藤川城主)の名が出ているのはその時期が知られる。ともかく、戦国時代。江戸時代を通じて「赤山大明神」は藤川の鎮守であった。

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東海道中五十三駅狂画 藤川 葛飾北斎この画像は「東海道中五十三駅狂画 藤川 葛飾北斎」というものですが、左端に「赤山大明神」と有るのが分かります。

葛飾北斎は江戸後期の浮世絵師ですが、その浮世絵の中に「赤山大明神」とあることで、まちがいなく「赤山大明神」が本来の名前であったと思われます。

 

ところで「赤山大明神」から「関山大明神」というように文字表記に変化が有った理由は分かりませんが、上記の社記にもあるのですが、明治元年に「関山神社」に呼称が変わった事が分かります。

これは明治政府による「廃仏毀釈」によるものである可能性が考えられます。もともとは神仏習合により、日本古来の神様も、仏教伝来によりもたらされた神仏も同様に祀ってきたのが日本古来のあり方でしたが、江戸初期の頃より神仏習合を是とせず、神仏を分離する考えが少しづつ広がっていました。

こうした神仏分離の考え方を推し進めた明治政府ですが、「赤山大明神」の場合、これは明らかに仏教所以の大明神(仏の化身)なのですが、ながらく藤川の鎮守としてお守りいただいた神様を神道風に変えるために、明治元年に社名を「関山神社」に変更して、祭神も「天手力雄命」と変えて祀った可能性がでてきます。

そこでまずは「赤山大明神」を改めて調べてみたところ、たしかに京都に「赤山大明神」の為に建てられたお寺が有るのが分かりました。

赤山禅院(せきざんぜんいん)です。

赤山禅院の由緒として以下のように記されています。

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赤山禅院(せきざんぜんいん)は、平安時代の仁和4年(888年)に、第三世天台座主 円仁の遺命によって創建された、天台宗総本山 延暦寺の塔頭のひとつです。
慈覚大師 円仁(794年~864年)は、838年、遣唐使船で唐に渡り、苦労の末に天台教学を納めました。その行程を守護した赤山大明神に感謝し、赤山禅院を建立することを誓ったとされます。
日本に戻った円仁は天台密教の基礎を築きましたが、赤山禅院の建立は果たせませんでした。その遺命により、第四世天台座主 安慧(あんね)が赤山禅院を創建したと伝えられています。

本尊の赤山大明神は、唐の赤山にあった泰山府君を勧請したものです。泰山府君は、中国五岳(五名山)の中でも筆頭とされる東岳・泰山(とうがく・たいざん)の神であり、日本では、陰陽道の祖神(おやがみ)になりました。
赤山禅院は、平安京の東北にあり、表鬼門に当たることから、赤山大明神は、皇城の表鬼門の鎮守としてまつられました。
以来、皇室から信仰され、修学院離宮の造営で知られる後水尾天皇(1596~1680)が離宮へ行幸された際、社殿の修築と「赤山大明神」の勅額を賜っています。

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ここに記されている通り「赤山大明神」のもとは「泰山府君」である事が分かります。

真言宗を開創された空海が、恵果阿闍梨(けいかあじゃり)から真言密教のすべてを授けられ、日本へ帰る時、勧請された「青龍大権現」が時化に見舞われた空海の乗る船を守ったと言われ、その後「清瀧大権現」としてまつられたのと似ていますね。(空海が恵果阿闍梨から灌頂を受けた寺が青龍寺です)

泰山府君は中国古代からの神で、仏教の閻魔大王と習合し、人間の寿命と福禄を支配するといわれます。

また泰山府君は陰陽道の祖神ともいわれ、陰陽道で言われる鬼門を守る神ともいえるようです。このあたりは赤山禅院のサイト中にも詳しく書かれています。

この鬼門というのは東北は表鬼門、西南は裏鬼門というのだそうですが、たしかに延暦寺は平安京の東北にあります。

(この赤山禅院を西南にたどると京都御所・平安京跡に行きつきます)

そしてこの鬼門除けとして「赤山大明神」が効験あらたかなら、藤川の赤山大明神も当時の人たちにとって同じように受け止められたかもしれないと思い、藤川の地図を調べてみると、関山神社を鬼門に持つ(関山神社の西南方面)に藤川城跡がある事が分かりました。

愛知の城 藤川城 に藤川城の城址について記載があります。このサイトにも有りますが、城主はまさに内藤家長(上記)なのです。(場所は伝誓寺の裏山で権現山らしい)

これは先に藤川城があって、その鬼門に赤山大明神を祀ったと考える方が素直な感じがしますが如何でしょうか?
あるいはこの時代の藤川村は、関山神社のすぐ下(南側)辺りにあったらしいので、赤山大明神が先に祀られていて、そこを鬼門鎮守にできるように藤川城の場所を決めたと言えるのかもしれません。
過去の本ブログの中で「小豆坂の戦い」で藤川から今川軍が出陣していると書きましたが、そうであれば当時村落が有った関山神社から少し隔たった権現山あたりに陣を張ったのもうなずける感じがします。

(関山神社の奥宮は一畑山薬師寺の西側になります。この地図の少し東北です。)

想像をめぐらすと色々な事が湧き上がってきますが、他の事は次の機会にしたいと思います。

ところで泰山府君、どこかで聞いた名前だと思っていたら「映画 陰陽師」の中で安倍清明(野村萬斎)が泰山府君祭という秘術を使っていたみたいです。(^_^;)

そういえば陰陽師は今年、市川染五郎主演でTVドラマ化されるようですね。こちらも楽しみです(^_-)

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