このシリーズは歌川広重の出世作とも言える代表作で、中心となった版元名により保永堂版と呼ばれる。 このシリーズの刊行については天保3年(1832)広重が幕府の八朔の御馬献進の一行に随行して上洛した体験によるものとする説がある。 本図はちょうど朝廷に献上する馬が藤川宿東の棒鼻に入ってくるところを描いている。 宿場の出はずれを棒鼻といったが、そこには境を示す宿囲石垣とともに傍示杭が立っていた。 本図はこうした藤川宿の一景観を知るうえでも参考になる
このシリーズは表題が行書体で書かれているので「行書東海道」と呼ばれている。 天保後期の作品で広重の東海道シリーズのなかでも保永堂版、隷書版とともに高い評価を受けている。 本図には「山中宿商家」とあり、藤川宿内というよりも東方の中世山中宿に比定される本宿村・山綱村・舞木村あたりの様子を描いたものであろうか。 このあたりは本図中に描かれるように麻縄・網袋が名物で近世の紀行文などにも記される
このシリーズは表題が隷書体なので、「隷書東海道」と呼ばれる。 丸屋清次郎の版で刊行年は「米良」と「渡辺」の両名主印が見られることから弘化4年(1847)から嘉永5年(1852)の間と見られる。 本図は藤川宿に入る大名行列を描く
広重晩年の安政2年(1855)、蔦屋吉蔵により刊行されたシリーズ。 蔦屋は嘉永頃にも横中版の東海道シリーズを刊行しており、これと区別するために料紙を竪に使った図柄から竪絵東海道と呼ばれる。 雪景色の藤川を描く。広重筆の落隷の下に「卯七」の刊行年月の印と版元の印がある
このシリーズは佐野屋喜兵衛より天保末年頃刊行されたもので、図中に狂歌が記されているために狂歌入東海道と呼ばれる。 絵の罫外左下には極印と版元名「佐野喜」が朱で入れられている。竪絵東海道と同様の雪景色の藤川を描く。狂歌は次のとおり。 行過る旅人とめて宿引の袖にまつはるふち川の駅 常盤国繁躬
このシリーズは弘化4年(1847)から嘉永5年(1852)の間に蔦屋吉蔵により刊行されたもので、版元名を冠して蔦屋版東海道と呼ばれる。隷書東海道と同時期の刊行である。アングルは違うが内容は行書東海道と同じ。藤川宿東方の山中立場を描いたものであろうか。山中名物の麻縄、網袋の表示がある。
蔦吉版東海道「歌川広重版」を模したもの。絵師は雪和かと読めるが不祥。「東海道五十三次十八」の標記は京を起点に宿場を数えている。 絵師を同じくする「東海道五十三次十八 藤川」も同様である。
雪景色の藤川宿を描く。このシリーズは有田屋清右衛門の版元によるもので版元名により有田屋版と呼ばれている。 名主「濱」の単印により天保14年(1843)より弘化4年(1847)までのものと推定される。画は初代広重の作品。
立祥は二代歌川広重。
文久3年(1863)に行われた14代将軍徳川家茂上洛の行列を描いたシリーズで、ほとんどの図に行列風景を描くので行列東海道・御上洛東海道と呼ばれる。 本図は版元が佐野屋富五郎で、改印「亥四極」より文久3年4月の刊行年が知られる。
北斎は享和年間頃より東海道のシリーズを描いており、現在7種類の作品が確認されている。多くが風景より人物が主体となったものである。享和4年(1804)刊行と推定されている本シリーズは狂歌摺物として出され、後に多くの狂歌を削除して一般に売り出された。本図は上部の狂歌が削除されている後版であり、橋を渡る前の旅人を描く。遠方に描かれる赤山神社は現在の関山神社である。なお、本図は右端に「三陽涛衣連」とあり、本図の出版に三陽涛江連が関わっていたことを示している。三陽涛江連は三河の狂歌師グループで、新堀村深見家の朝倉菴三笑などがメンバーであった。本図の狂歌入りのものには、辺仁之牙子(朝倉菴三笑の妻)ほか3名の句が摺りこまれている。
本シリーズには帖仕立のものがあり、それには「東海道五十三次 絵本駅路鈴」の表題及び序文が付されている。北斎の東海道の中では堅中版と比較的大きいサイズのもので、宿場や街道を行く旅人の風俗が描かれる。藤川の本図は馬上の女人姿を描く。文化年間頃の作品。版元は本図には記されていないが、「掛川」「見附」などに見られる版元印より伊勢屋利兵衛とされている
横九つ切判の摺物風の東海道シリーズで、北斎画の著名はあるが版元・刊行年は不明。 本シリーズは大津と草津が一図にまとめられているために54図からなる。 藤川の本図は内風呂を描く。 保存状態は良いが、左右が少し切られているのが惜しまれる。
このシリーズは嘉永5年(1852)村田屋市五郎によって刊行されたもので、風景よりも人物を主として描くので人物東海道と呼ばれる。 木ちん宿内の人物、その前を通る巡礼者などの旅人を描く。 右下に「馬込」と「濱」の各主印、左下に嘉永5年(1852)2月の「予閏」の改印がある
「酒肴品々」の看板の店先で馬上武者を振る舞う風景を描く。「藤川のしゅくの棒はなミわたせハ杉のしるしとうて蛸のあし」と記される。 藤川宿の棒鼻の茶屋が軒ごとに生肴をつるしていたことは十辺舎一九の『東海道中膝栗毛』にも記される。作者の歌川豊広(1774~1829)は歌川派の祖豊春の門人、豊広の門下には広重がいる。
上部は夜中の猪狩一行を描く。この部分の絵師は惺々暁斎。下部は三代豊国画で「東海道中膝栗毛」の赤坂での狐についての話を描く。 版元は太田屋多吉。元治元年(1864)年の作品。
下部は「東海道中膝栗毛」の藤川における狂婦に絡まられた北八の話を描く。河鍋暁斎画。明治期の作品らしく右端にガス灯が描かれる。
絵師は「弥治楼芳一九」とあり、落合芳幾(よしいく)と考えられる。戯題は仮名垣魯文が書きいれている。 版元は品川屋久助、刊行年は「申四改」の極印より万延元年(1860)4月である。
棒鼻前での争いを描く。東海道中膝栗毛に題材をとっていると思われる。表題横に「おのれくそ食へ、食ふものあらそひは、鼻もちならぬ、喧嘩なりけり」の狂歌を入れる。 絵師は印より為信、明治23年の作とされる。
大名行列中の馬上武者を中心に描く。二代広重の作品。刊行年は「子二改」の極印より元治元年(1864)年2月。
長州征伐に向かう行列を描いた末広五十三次シリーズの一つで、慶応元年(1865)に刊行された。左下枠外に慶応元年閏5月の「閏五改」印と版元海老屋林之助の印がある。
図上部の枠内に風景を描き、下部に女性を主題に描くので美人東海道を呼ばれている。このシリーズは弘化4年(1847)から嘉永5年(1852)の間に藤岡屋慶次郎のより刊行されたもの。 「広重画」の落隷右上に「濱」「馬込」の絵草紙掛名主印がある。
上部枠内に広重が宿場の風景を、下半分に三代豊国が宿場の人物・風俗を描いた合作になるもの。 このシリーズは安政元年から同2年にかけて丸屋久四郎より刊行された。本図は旅姿の美人の草履の紐を一人の美人が結ぶのを描く。右端中央に安政2年(1855)4月を示す「卯四」の印がある
このシリーズは三代豊国が改名前の国貞時代、天保年間に描いたもの。佐野屋喜兵衛と森屋治兵衛の合版で刊行された。 国貞得意の美人画を前面に描き、背後には広重の保永堂版を風景として借用している。
英泉が晩年の天保後期に描いた美人を主体にした東海道のシリーズ。版元は蔦屋吉蔵。 本来美人周辺の余白に俳句が記されるものであるが、本品では省かれている。 本図の風景は低い位置から宿を描き、英泉独特の筆致になっている。改印は「田中」の絵草紙掛名主印より天保14年(1843)より弘化4年(1847)の刊行と思われる。
吉原遊廓の女郎を描き、背後の枠内に宿場風景を描く。 版元は蔦屋吉蔵、文化12年(1815)から天保13年(1842)の間のものと見られる。
版元の「湊小」は江戸浅草並木町の湊屋小兵衛。 左中央に「福」「村松」の名主印とともに嘉永5年(1852)10月の刊行を示す「子十」の印がある。
竪絵東海道藤川の背景を背景に美人を描く。「寅二」の印より安政元年(1854)のものとわかる。版元は山城屋甚兵衛。 絵師の重宣は歌川広重の門人で、俗称は鎮平、画名を重宣といい、のち立斎、立祥、喜斎とも号した。重宣は初代広重の没後、師の女婿となり、広重を襲名して二代広重となった
竪絵東海道藤川の風景を背後に美人を描く。28.の重宣画と同じ構図だが竪判になっている。 絵師の著名は「雪和写」と読めるが不祥。
このシリーズは広重、三代豊国、国芳の当時歌川派三傑が分担して、東海道各宿に因んだ故事・伝説を絵画化したもので、弘化年間に数軒の版元より刊行された。図上の説明は次のとおり。 藤川水右衛門ハ私のしゅういをもつて同家中磯貝兵太夫をやミ討にし、長光の刀をうはひ立退、行方をかくす、 然るニ兵太夫倅兵助父の仇を討んと所々をたづねる内眼病を煩ひ、ある時水右衛門ニ出合しに眼病ゆえミやミとかへりうちニなる、其弟終ニ水右衛門を尋出し本望をたつす、藤川と云名の因ニ依てこゝに出す
三代豊国が嘉永5年(1852)に描いた東海道のシリーズで、各図の前に歌舞伎役者の見立絵を描くことから役者見立東海道と呼ばれる。 改印は佐々木藤三郎の方が嘉永5年5月を示す「子五」と「濱」「馬込」の名主印。三浦之助の方が嘉永5年9月を示す「子九」。 版元は伊勢屋兼吉、彫師は「彫竹」より横川竹二郎とわかる。
三代豊国が嘉永5年(1852)に描いた東海道のシリーズで、各図の前に歌舞伎役者の見立絵を描くことから役者見立東海道と呼ばれる。 改印は佐々木藤三郎の方が嘉永5年5月を示す「子五」と「濱」「馬込」の名主印。三浦之助の方が嘉永5年9月を示す「子九」。 版元は伊勢屋兼吉、彫師は「彫竹」より横川竹二郎とわかる。
歌舞伎俳優・沢村田之助を描く。3枚続き。版元は江戸両国の加賀屋吉右衛門・吉兵衛。 改印「酉六改」より文久元年(1861)6月の刊行
歌舞伎俳優・中村芝翫を描く。3枚続き。版元は江戸両国の加賀屋吉右衛門・吉兵衛。 改印「酉六改」より文久元年(1861)6月の刊行
歌舞伎俳優・中村雀之助を描く。3枚続き。版元は江戸両国の加賀屋吉右衛門・吉兵衛。 改印「酉六改」より文久元年(1861)6月の刊行
盆景の東海道五十三次シリーズの一つ。江戸時代に流行する箱庭を表現したもの。
絵師は初代広重、版元は伊場屋仙三郎、刊行年は弘化4年(1847)から嘉永5年(1852)。 右端に切れているが、版元印があったと見られる。雪景色の藤川を描く。
絵師は初代広重、版元は山口屋藤兵衛、刊行年は安政3年(1856)で上部に「辰ニ」と「改」の両印がある。 左端に版元の「山口」あり。
二代広重画「東海道五十三次一覧」の一部。文久3年(1863)12月の「亥十二改」印あり。版元は伊勢屋兼吉。
道中画譜は、魚屋北渓の狂歌本「狂歌東関駅路鈴」を改題し、北斎画として再摺したもので版元は名古屋の永楽屋東四郎である。
作者の安田雷州は江戸後期の洋風画家・幕府与力。名は尚義、字は信甫といった。作画期は文化11年(1814)~安政5年(1858)で銅版画を数多く残し、本図のように小画面のうちに現実の風景を細密に描いた。日本橋より祇園新島原までの56場面を描く
作者の安田雷州は江戸後期の洋風画家・幕府与力。名は尚義、字は信甫といった。作画期は文化11年(1814)~安政5年(1858)で銅版画を数多く残し、本図のように小画面のうちに現実の風景を細密に描いた。日本橋より祇園新島原までの56場面を描く
標題に「藤川駅 八幡山眺望」とあり、八幡山とは舞木村の八幡宮のあるあたりの山と思われる。 枠外に薄く「東海道五十三次之真景」 画工印刷兼発行人東京市京橋区加賀町三番地 大山周蔵 明治廿四年十一月廿四日印刷出版 版権所有」とあり製作者、製作年代を知ることができる
泥絵の具で描かれた東海道シリーズもので、藤川宿棒鼻あたりの様子を描く。時代は江戸末期であろうか
『東街便覧図路』は尾張藩士の高力猿候庵の著書になるもので、熱田(宮)から品川までの名所・名物を絵と文で綴ったものである。成立年代は寛政7年(1795)頃と考えられている。藤川の部分には民家の溝堀の渡石や踏石に見られる豊富な石のことを特記している
『東街便覧図路』は尾張藩士の高力猿候庵の著書になるもので、熱田(宮)から品川までの名所・名物を絵と文で綴ったものである。成立年代は寛政7年(1795)頃と考えられている。藤川の部分には民家の溝堀の渡石や踏石に見られる豊富な石のことを特記している。
江戸幕府が作成したもので、道中奉行所にて調査編集され、寛政末年頃着手、文化3年(1806)完成した。縮尺は一里を曲尺七尺ニ寸とし、道の迂回曲折は方位により示されている。また、街道筋で見聞できる寺院、古跡、山なども遠近にしたがって描かれている。街道図としては最も精密なものであった。
藤川宿より大平町までの往還の様子を描く。宿囲石垣の様子などがよく分かる。明治初年の作
江戸から京都までを描いた道中図で5帖の折本からなる。遠近道印著、菱川師宣筆で最初元禄3年(1690)に木版刷りで出された。序文に「三分一町之積り」とあるように1町を3分に縮小(1万2000分の1相当)して描かれるている。街道沿いの一里塚や並木道、そこを旅する人が描かれるほか、問屋の名前も記される。本帖は正徳元年(1711)5月の後版本である。
伝馬朱印状。藤川宿資料館で見られる。