豊川海軍工廠

TV等のメディアでは、昨日の「広島原爆投下の日」に関する報道が多いですね。続いて9日には「長崎」に原爆が投下された日で、本当に多くの命が奪われた日であることは否定しようも有りませんが、日本がポツダム宣言を受け入れるまでの間には、広島・長崎の原爆だけではなく、多くの場所に空襲が有り、多くの尊い命が失われています。

ここ藤川町が現在所属する岡崎市では、市街地に空爆が行われたのは7月19日の事でした。

Wikipediaによると「人的被害は、死者207名、行方不明者13名、被災者32,068名にのぼった。なお、近年「岡崎空襲を記録する会」が行った調査によれば、死者は280名(内8名機銃掃射)とされている。建物の被害は全壊7,312戸、半壊230戸。当時の岡崎市の戸数は約2万戸だったことから、3分の1以上が焼失したことになる。」と有ります。

被災者の多さからすると死者は意外に少ないと感じるのですが、当時は連日のように各地で空襲が行われており、岡崎でも空襲に備えた訓練や準備が行われていたことが窺われます。
これは同Wikipediaに「岡崎市役所は数十発の焼夷弾を受けながら、待機していた市吏員から成る『自衛団』の機転によって焼失を免れた。」とあることからも分かります。

それでも3万人を超える被災者というのは大きな被害であったことは間違いありません。

ところで今日、8月7日は「豊川海軍工廠」の空爆が行われた日なのです。

豊川海軍工廠こんな画像を見つけました。

B29と一緒に豊川海軍工廠が映ってます。
姫街道が左から右下に通っているのがよく分かりますが、その上(北)に碁盤の目のように区画整理されている部分が豊川海軍工廠です。

この空襲では、2500人を超える尊い命が失われたのですが、その中には勤労動員されていた中学生、女学生、高等科生徒、約450名がいました。

実は私の叔母も、そうした勤労女学生の内の一人です。まだ手書きの時代だった当時の住民票を見ると「敵機の爆撃」「豊川海軍工廠長清水文雄報告」という文字が読み取れます。享年17歳。
当時、家族で遺体を探しに行ったそうですが、累々たる死骸の中から娘(姉)を見つける事はできなかった、と聞いています。(夏の事であり、ご遺体の腐臭がひどく難儀をしたとも聞いています)

藤川とは直接的なかかわりが有りませんが、70年前の今日の出来事として記録と共に記憶に留めたいと思います。

 

 

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