昨日、岡崎市の市政だよりが届きました。

毎号楽しみにしているのが表紙に採用される”絵”です。今月号は愛知産業大学3年生の男子学生(?)の作品ですが、有名な「家康・しかみ像」です。

武田信玄の大軍を無謀にも城を打って出て戦い、ましてや少数軍が大軍と戦うには常識外ともいえるような「鶴翼の陣」で戦った家康軍。一方、大軍を擁して家康など歯牙にもかけないかのように城攻めをせず、通り過ぎようとした信玄軍は、「魚麟の陣」と言われます。

本来、鶴翼の陣は、大軍が少数の敵を取り囲むように覆って威嚇しながら攻め込む陣形で、軍の層が薄くなりますから、この時に家康が採った戦法は無謀ともいえるものでした。(そもそも、城に籠って信玄軍を見逃すという手も有ったのだが・・・)

この三方が原の戦いでは、単に大敗したというだけではなく、多くの三河以来の忠臣が、家康の命を守るために散って逝った悲惨な負け戦でもあったのです。それを後世まで忘れまいとして描かせたのが、この「しかみ像」と言われるのですが。

さてそこで、先週の「おんな城主 直虎」です。

家康の正室である瀬名姫(築山御前)が、信長の命により自刃されそうになっている息子・信康の身を案じ、浜松まで旅をしているという設定です。(家康としては、信康をあちこちの城に移させながら、誰か家臣が逃がしてはくれまいか、と願っていたのかもしれません。北条との盟約までの時間稼ぎだけとも思えない)

この物語の中では、信長に武田家との密約を疑われ、自刃を命じられた信康の罪を、自らが本当の密約者で信康に罪は無いと、一芝居打つというストーリーなわけですが、この辺りの経緯は本当のところよく分かっていない(正しく伝えられていない)ので、作家の腕の見せ所でもあります。

感想は・・・まぁ良かった!(*^_^*)

信康は暴君として、瀬名姫は悪女として描かれることの方が多いですから、本作の様に両名が善人であったと描かれるのは三河人間としては嬉しい事です。それにしても信長の描かれ方は、少々乱暴すぎるかなぁ。

築山御前の墓が、岡崎の東公園の近くにあり、車で通るたびに祈りを手向けてきました。

正室とはいえ、敵に寝返って裏切り者として家来の手によって切られた築山御前。その墓が、家康が天下を取ったからだとはいっても、きちんと立派に墓が建てられて祀られている。という事は、事実はそうではなかったことを暗示してはいまいか。また信康もしかり。そう思うと瀬名も信康も、家康にとっては三方が原の大敗で味わった屈辱に勝るとも劣らぬエポックとして記憶に残っていたでしょう。

最初の「しかみ像」と瀬名姫。家康の心の葛藤と挫けぬ心を表していると思えます。

そうした主君を持った三河武士、そして三河の人々は、そうした主君を誇らしく思い、家康の様にじっと我慢することこそ美徳と、今でも魂の奥底に持っているように思えてなりません。(それが他所から来た人には馴染みにくい人たちに見えるのですが・・・)

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