村社 關山神社 考察の1

先日、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている「参河国額田郡神社誌」の関山神社についての記録をタイピングしましたが、その考察を素人ながら少しづつしてみたいと思います。

はじめに由来書きの

往古は赤山大明神と伝えり。創立年代詳らかならずと雖も、口碑に寛永年間藤川村城主内藤彌次右エ門家長信仰淺からずして、本殿を再建し、兩覆を建立せり。現在の雨覆は即ちこれなりと傳ふ。

の部分ですが、創立年代については”詳らかならず”となっていますが、”口碑に寛永年間藤川村城主内藤彌次右工門家長信仰淺からずして、本殿を再建し、兩覆を建立せり”とあるように、遅くとも寛永年間には既に赤山大明神は祀られていて、本殿の再建と新たに雨覆を建立したことが分かります。

実はここで、”雨覆”(あまおおい)というのが何であるのかよく分からなかったものですから、先日神社庁に電話して聞いてみました。ご親切にお応えいただいたのですが、シンプルに”本殿や社殿などが雨に濡れて傷まないように覆っておくもの”という解釈で良いようです。何か神社には”雨覆”という特別な呼称の建物があるのかと思って調べていたのですが、ネットで調べても答えが見つかりませんでした。(鳥の羽の一部も雨覆というらしい)

という事は、寛永年間に藤川村の城主であった内藤彌次右工門家長が、傷んでいた本殿を再建(修復ではない)し、さらに、その本殿が痛まないように雨覆も立てたという事ですね。ここで雨覆を建立となっているので、それほど簡素なものではなかったと思うので、相応の建物だったのだと思います。

次に寛永年間ですが、これは徳川三代将軍「家光」の時代のようです。ということは戦国はすでに終わり、徳川将軍家による治世がようやく始まった頃と言えるのでしょう。また同時に、東海道藤川宿も、この家光公の時代に整備されたと言われますから、ほぼ同じ時期に「藤川宿」の整備と「赤山神社」の再建が有ったという事になります。

これは、この写真の「元宮」の本殿なのか、「里宮」の本殿なのかは断定しづらいですのですが、

弘化二年九月二十五日問屋鈴木勘右エ門、同平岡傳之助、名主中村四朗左エ門、同淺岡與右エ門、組頭塚本幸蔵、同平岡安左エ門、並に惣氏子等の願主に依り、本殿を再建御遷座を行ひたり。現今の本殿これなり。明治元年關山神社と改められる。

ここを見ると”本殿を再建御遷座を行ひたり。現今の本殿これなり。”と有りますので、この弘化二年に里宮の本殿が建立され、ここに御遷座されたと見た方が自然な感じがします。

この弘化(こうか)二年はすでに幕末で、天保15年12月2日(グレゴリオ暦1845年1月9日) 江戸城火災などの災異のため弘化に改元され、弘化5年2月28日(グレゴリオ暦1848年4月1日) には嘉永に改元されていますので、極短い時期です。この時期、海外から開港を求めるフランスやアメリカの船が日本に来ており、まさに明治に向かって突き進む端緒になった時期でもあるようです。

この時の棟札がこれです。

弘化二乙巳載
一天泰平國土静謐
大別當大先達明星院直静

奉再建赤山大明神御本殿鎮座安静祈所
五穀
成就衆人快樂
九月二十五日

大工棟梁 當所中町
高橋傅治郎藤原孝次


願主惣氏子

問屋 鈴木勘右エ門
同  平岡傳之助
名主 中村四朗左エ門
同  淺岡與右エ門

年寄 倉橋兵次郎
年寄・組頭 塚本幸蔵
組頭 平岡安左エ門
百姓代 大西三太夫

この棟上式を司ったのが、昨日桜の写真を掲載した「明星院」の”大別當大先達明星院直静”という方のようですね。

大工の棟梁は、中町(今の本陣跡ひろばがある当たり)の”高橋傅治郎藤原孝次”とあります。

願主として名前が載っている方たちは今もそのご子孫がいらっしゃるのではないとかと思います。

最後に話は全く変わりますが、一週間ほど前から藤川にもツバメがやって来ています。なかなか写真に収めることができないのですが、上手く撮れたらご紹介したいと思っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

風景

前の記事

明星院の桜