藤川宿と市場町

街道左側に旧・高札場、右に粟生人形店がある。このあたりが藤川町と市場町の境である。藤川宿は少し不思議なところがあって、一つの宿場町の中に二つの町が有ります。

それは宿場名と同じ、「藤川町」と藤川宿の東部を構成する「市場町(いちばちょう)」です。

ですから住所的には、「岡崎市藤川町市場」ではなくて「岡崎市市場町」です。

どうしてこのようになっているのかというと、一つは市場町は藤川宿へ加宿されたということ。(藤川宿の規模が小さかったので、今の岡崎市舞木町あたりの住民を藤川に引っ越しさせて、藤川宿の一部を構成させた。)

加宿 市場の歴史と文化財でも、これだけなら市場町と独立したような名前を残す必要はなかったと思われます。

そこでもうひとつ考えられるのは、市場町に引っ越してきた方たちのプライドという事です。

昨年「岡崎市政施行100周年」を記念して作成された「加宿 市場の歴史と文化財」の冒頭、「市場の歴史と沿革」において

市場町の歴史は非常に古く、古くは律令時代に遡ると考えられます。それは山綱に馬の駅が遠く、千数百年前の律令時代すでに置かれた事実が演習の伊場遺跡で発見された、木簡により発掘されており明らかになっています。

これはすでに山綱に駅が置かれ、駅則と構成から見て4~10頭の馬が常駐、情報伝達の他に当然ながら馬による荷駄の交流が自然発生的に行われたと思われ、初期的な物資交易の場となり、所謂(いわゆる)物を売買する処を現代では市場と云いますが、その語源の発祥に関係しているのではないかととすら、古さからして想像されます。

と記され、自らのルーツに対する誇り(プライド)を感じるのです。

しかも

加宿の年号は恐らく慶安(三八二年前)より和えに出されたと思われ、当時六十数戸(六十八戸)とも云われ、一時に移転するとなると現代でも大変ですが、当時としては想像もつなかい艱難辛苦のことであったと思います。しかも現在の市場は当時、葦草の生えた低湿地の一帯で街を造るには適さず非常に困難な中での工事を強いられたことと考えられます。

とあるように市場町の成り立ちに対する想いが綴られていることから、代々の町民にこの苦労が語り伝えられたことが偲ばれます。

今回はこの位にして、少しづつ市場町の歴史と文化について記事にしたいと思います。

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