昨日は大河ドラマにかけて人それぞれにドラマがあるという事を書きましたが、今日12月19日は忘れられない思い出のある日です。

藤川宿にある「称名寺(しょうみょうじ)」本堂です。

もう40年も前。昭和53年12月19日。
この日、私の祖母が他界しました。
当時、東京に住んでいた私は、危篤の知らせを受けて急きょ帰省したのですが、豊橋駅まで叔父に車で迎えに来てもらい、藤川まで急ぎました。
自宅に着く直前(あと100mくらい)のところで叔父としては末っ子の兄にも近い感じの叔父とすれ違いました。
迎えに来てくれた叔父が、車の窓越しに「どうしたんだ!」と問いただすと「おっかさんが死んじゃった!」と鳴きながら答えたのを今でも鮮明に覚えています。

結局、死に目には会えず、自宅で待つことになりました。

当時は通夜の中で「ひゃくまんべ」と言って、大きな数珠(ひとまわり3mくらい?)を亡骸の周りを親族が囲み、「なまんだぶ」と唱えながら何度も何度も回して祈りました。
「ひゃくまんべ」というのは百万遍と書くのでしょう、多くの回数という意味でしょうか。
「なまんだぶ」は南無阿弥陀仏ですね。浄土宗の我が家では、なんでも「なまんだぶ」だったわけです。

翌日、葬儀が行われたのが上の写真の「称名寺・本堂」です。当時はまだこれが普通だったのだと思いますが、隙間だらけの本堂は寒く、大きなストーブが焚かれていても身の凍るような寒さだったことを覚えています。
そして境内には、隣家や縁者の方々がたくさん集まり、焼香の後には本堂まで上がっていただいて、最後の別れをしていただきました。

あの時、今日も寒いのですが、葬儀の間に雪が降っていたのを覚えています。
そんな寒さの中、多くの方がお参りに集まり、最後の別れをしてくださったのですから、身内の者が「寒い」などと言っていられません。

この本堂の上がり口が、お参りの人たちの靴であふれていたのを、なぜか鮮明に覚えています。

本堂内は板敷で、座布団を敷いただけだったと思うのですが、当時はそれが当たり前だったのに、いまでは大概の場合、葬儀社の会場を使いますから、このような思いも違ってきます。

この時の叔父たちもすでに鬼籍に入りましたが、その時には既に葬儀社の会場でした。

祖母の死は、私にとって初めての身内の死だったこともあり、とても印象深く覚えているのです。これは叔父たちにとっても、それに近い思い出だったでしょう。(終戦後に亡くなった身内はいないのじゃないかな)

一人の人がいれば、そこに必ずドラマが存在する。私にもあなたにも。